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院長プロフィール

阿波の国、徳島県に生まれる。
小学3年生から地元のサッカー少年団に所属する。
サッカーを始めたきっかけは、マンガの「キャプテン翼」を見てドライブシュートをやってみたかったからだ。当時は本気でキャプテン翼のようになれると思っていたし、それから大学3回生までの14年間は常にサッカーが生活の中にあった。
とくに高校時代は、サッカーをしていた以外にあまり記憶がなく、どうやって勉強したのか!? 
よく学校のテストをクリアーしてきたなぁ=と今でも不思議である(笑)

高校時代に出会った仲間たちは最高であった。当時からすごい奴等だと思っていたが、社会人になってからハッキリと理解できた。彼らの何が凄くて、当時の些細な彼らの行動がいかに能力が高いことだったのかが・・・・
そして、サッカー部顧問であった恩師の先生は最高というより最強であった。現在は徳島県サッカー界の重鎮であるが、当時からサッカーの知識・見抜く力・情熱は半端ではなく、サッカーの技術・戦術も教わったが、自分の未熟な心や甘い思考をズバッと見抜かれ、よく鍛えられたのを覚えている。社会にでた今だからよく分かるが、私の性格・性質を見抜いて導いてくれたことに感謝している。
恩師と仲間たちと高校3年間で二度の全国制覇を成し遂げたことは誇りである。


大阪の大学卒業後は、建設会社に入社するも、やや不完全燃焼だった。
24歳の時、ふと町の柔道場に行くようになる。ここで柔道整復師という人たちに初めて出会うことになるが、そこには紅白帯の柔道八段の先生がいて、整骨院の院長先生であった。
柔道場に行った初日に先生と乱取りすることとなった。
24歳の私はまだまだ体力には自信があったが、柔道八段の先生と乱取りで組み合った時には衝撃であった。柔道の猛者であることは分かっていたが、年齢ははるか上の還暦だったし、一本取ってやろうと息巻いていた。  ヨシッ!!・・・・えっ!!ええっ動かない・・・・
そんなことあり得ないっ!! いくら八段でも相手は還暦やし、自分はイケイケの若手である。でも、いくら体を崩そうとしても、バランスを崩そうとしても軸がぶれないのである。まるで大きな岩と組み合っているようだった。後で分かったのだが、同じ八段でも名誉八段もあるが、その先生は日本に数名しかいない実力八段でバリバリの現役であった。
その道場には当時高校生であったが、今では北京オリンピック金メダリストの石井慧選手が稽古に来ていて猛特訓をしていた。聞くところによると、高校でもたっぷりと稽古をしてきた後に、さらに稽古するため遠くから来ていたそうである。当時からそれほど大きい身体ではなかった彼だが、ひたむきに柔道に打ち込む姿は群を抜いていたのを覚えている。

そして柔道八段の先生の薦めもあり、ひょんなことから柔道整復師の道を志すようになり修行が始まるのである。整骨院で早朝から夕方までひたすら働き、夜からは大阪森ノ宮にある柔道整復師の専門学校に通う日々であった。一ヶ月間働きに働いた月末、待望の給料日である。「お疲れさん」の言葉とともに、院長先生から茶色い給料袋を受け取る、「ありがとうございます」と手にしたが何とも不思議な感覚であった。やけにペラペラやなぁ=と思いつつ封筒を開けて出てきたのは、ちょっとくたびれた一万円札が8枚であった。サラリーマンとして普通に給料を貰っていた私にはなかなかの強烈なパンチであった。後にも先にも、この時ほどズッこけたことは無かった。「えっ8万円~っ」と心で思いながらも満面の笑顔でお礼を言いながら、「これも修行修行」と言い聞かせた。でも確か、当時の自宅マンションの家賃は7万円だったなぁ=(笑)

柔道整復師の専門学校の3年間、成績は常にトップであった。
この専門学校の講師は、皆が情熱的な先生方で、若い連中たちに何かを伝えてやろうという気合がすごかった。卒業してから他の専門学校出身者と話をして分かったのだが、いかにより現場に近く、臨床で即戦力として通用する知識を学んだかということを知った。特に包帯を巻く技術や患部を固定する技術はずば抜けていて、同じ時期に卒業した他校の人は、なんでそんなに包帯が巻けないのか不思議なぐらいであった。

専門学校卒業後は、西宮甲子園の整形外科に就職する。そこでは3年間、日本の脊椎・脊髄疾患の権威である永田裕人院長に師事する。最新の手術を学んだり、現場の生きた知識を得ることが出来た。この病院は地域の一次救急を担当しており、私も毎週のように救急外来の現場に立ち、骨折・脱臼・肉ばなれ・捻挫などの新鮮な症例を経験した。この経験は、今では最高の宝物である。

その後、東大阪の整骨院で院長代理をしながら、今度は東洋医学を学ぶために、再び森ノ宮の専門学校の鍼灸学科に入学する。またまた早朝から夕方まで仕事をして、夜は専門学校に通うという日々が始まった。やはりここでも、成績は常にトップクラスであった。

東洋医学を学び鍼灸治療を経験して、さらに疾患への探究心、治療への情熱がこみ上げてくる。鍼灸治療はとにかく不思議であり、ミラクルであった。たとえば、肩が痛い人を治療するのに、肩だけでなく手や指先を治療したり、ましてや足を治療したりする。しかも、今までいろんなところで治療しても良くならない人が快方に向かっていくのである。東洋医学の経絡や経穴(ツボ)という考え方は、私の治療に幅をもたらし奥深いものにしてくれたのである。


これまでも、大阪を拠点として多くのセミナーや講義を受けてきたが、さらに高みを目指して日本全国を飛び回るようになる。新しい治療法があれば東北までも行き、レベルの高い先生がいると知れば九州までも行った。お金や時間・そして労力は全く惜しいとも思わず、日本中を歩きに歩いた。さながら幕末の志士 坂本龍馬のようだなぁと一人で勝手になりきっていた。訪問先の先生には、本当に来るとは思わなかったと驚かれ、半分は呆れられながらも熱心に治療について語り合ったものだった。私は、昔から何かにこだわると止められない性格のようである。セミナーや講義は東京・大阪・名古屋・福岡などの都市部で開催されるが、いい治療をしているという先生方はなぜか田舎の辺鄙なところで開業している人も多かった。 
そしてついには、私の治療家としての情熱は日本だけでは収まらず、世界へと飛び出していくこととなる。西は中国で本場の鍼灸を学び、韓国・台湾では伝統民族療法を体感し、インドでは精神修行とジャイナ教聖者からの教えと何千年もの古来から脈々と受け継がれている治療法を学んだ。そして南はオーストラリアに行きシドニーオリンピック・スポーツマッサージ総監督から最新の治療エッセンスを体得するのであった。


寅年の2010年!! 年男の私は、兼ねてより決めていた故郷である徳島での開業を目指し、大学進学で上阪してから18年間過ごした大阪を後にして帰郷するのである。


2010年10月1日  すみとも整骨鍼灸院開院。



治療家として日本全国そして世界中を飛び回り体得した施術法を
阿波の国 徳島から発信し、つらい思いをしているたくさんの方々の助けとなり、
笑顔を伝えていく伝道師でありたい。
これが私の使命であり願いである。



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Author:Koji Sumitomo
徳島市の整骨鍼灸院
院長 住友浩二

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